昭和レトロなシューズは未だ忘れず

小学生だったころ、友達の履くシューズが羨ましかった。タテヨコ高さのどの方向も細く薄く引きしまった外観に憧れた。ソールは上から見下ろすとアッパーの影に隠れて見えないくらい極薄だった。アレを履けば僕も早く走れると夢想してやまなかった。
粘ってねばってようやく親を口説いた。週末にばあちゃんに連れられて街の靴屋に行った。目指すシューズを見つけ試し履きして驚いた。何も履いてないような軽さは空も飛べそうな気持ちにさせてくれた。正に天にも昇る心地。それまで僕が履いていたのはドテッ、ボタッとして見るからに鈍で重そうだった。溝はあるが平面が多くノッペリしたソールは厚く、走るとバタバタと音がしたもんだった。
月星jaguarは細君に汚いキタナイと言われつつも長いこと手放さなかった。昭和レトロなデザインと足袋みたいな軽い履き心地はなかなかない。それが最近になってようやく理想のシューズを見つけた。新旧のシューズに共通するのは白地に赤と青のラインが並ぶだけのデザイン。派手な配色も鮮やかなグラデーションもない。
 ただしこのadidasに空を飛べる軽さはない。試しに走ってみるとバタバタと音を鳴らす。時代を遡ったような錯覚を覚えた。速く走れなくてもいいシューズだよ。

原稿の追い込み

目が覚めて頭が重い。起き上がろうとすると目がまわる。気のせいではない。自分のアタマと部屋が反対にまわっている。またやってしまったのか。後悔先に立たず。しかしわずかながら残っていた気力でベッドから這い出た。

 

昨晩遅くまで書くことをねばった。どうしても締め切りに間に合わせたいと踏ん張った。言葉をつなぎ自分が望む形にすることを諦めたくなかった。気持ちは充実し集中力が絶えることはなかった。

 

しかし夜が明けるまで追い込むことはやめた。翌日使い物にならなくなることは自明のことだ。気力と体力は使い切るより、余裕を持たせた方が次につながることは今までの経験から学んだ。

 

今朝気合を入れてパソコンに向かった。何とかなりそうな気がしてきた。昼めしを食べることを諦めパソコンの前から離れなかった。

 

いいものができたと確信した。その原稿を持って郵便局へ走った。郵便局をあとにして疲れがどっと出た。この疲労感は心地よい。頑張ったからこそ感じるものだ。次に何を書くかはこれから考えよう。

パソコンよ、ありがとう

ようやくキーボードを叩く指が滑らかに動くようになってきた。考えて叩く。考えて叩く。とにかく叩く。多少雑でも文字にしていく。そうすれば次の文章や展開が見えてくる。深く考えるより目に見えるようにすればなんとかなるって感じだ。

 

並んだ文字を眺め、気に入らなければ直す。文章を入れ替えたり、語尾を変えたりしていく。新たに単語を差し入れることも削除することもパソコン上はいとも簡単にできる。紙の原稿用紙ではとうていできない荒業も思い切ってできる。

 

パソコンやワープロが広まる前の文豪たちの文章を考える技術って、この意味でもスゴイと感心する。頭の中で考え練りに練った文字をつなぎ合わせ、筆で紙に記していった。頭の造りが違ったのだ。

 

オレには無理だな。頭が爆発するか、原稿用紙も筆も投げてしまうかだ。パソコンよ、ありがとう。君がいてくれて自由気ままな文章が書けるのだから。

心織筆耕の道

今朝目が覚めて、頭が重い。前夜の家飲みが過ぎたか。それとも寝るタイミングをはずしてしまったか。朝から後悔の念に苛まれる。いつもの通り朝食を摂り掃除に精を出す。しかし食器洗いに手が付けられない。シンクにあふれる皿、グラス、カップは昼までに済ませればいいと開き直った。

 

心織筆耕も諦めベッドにもぐりこもうと寝室に向かった。しかし、となりの書斎に脚が向いた。椅子を手で引き座ってキーボードの上に手を構えた。半信半疑でキーをたたき始めた。なんとなく始めたのだが意外と創作は進むもんだ。調子に乗って昼過ぎまで四時間ぶっ通しで書き進めた。

 

遅めの昼食を摂ろうと立ち上がったが力が入らなかった。腹の奥底が重く気持ち悪い。やはり体調は良くなかったのだ。頑張らずにそのままベッドに入っておけば良かったと後悔した。

 

夕方になりようやく下腹の気持ち悪さが引けてきた。歳をとれば調子の悪くなることはしかたがない。その日の調子を静かに見守り身体の具合に合わせておのれを励ましてやる。自分の機嫌は自分でとってやる。歳を重ねいくらか利口になったと思うよ。

創作と運動のイイ関係

創作のために、昨日一日かけて書きたいことをネタ帳に箇条書きした。時系列を追って思いつくことを並べていった。うーん、うーん考えていれば、ひとつ思いつきそれにつながって浮かび上がることもある。しかしそう長くはつながらない。必ず絶えてしまう。

 

何もないわけがないと上を見上げ、下を覗き込むようにしたり、首を右に左に。それでもだめなら上半身を左右にひねる。さらには立ち上がって膝と腰の屈伸運動だ。いよいよは隣の部屋に行き腕立て伏せをする。やり方は二とおりある。腕を身体と平行に添えてやれば腕と肩に効く。腕を身体と垂直にしてやれば胸に効く。それが終わったらローラーを使って腹筋運動だ。

 

頭が煮詰まったときの気分転換だがいつしか本気になってやっている。普段走ることを趣味にしているので脚は申し分なく鍛えられている。しかし腕は萎える一方だ。キーボードをいくら叩いても指の運動にしかならない。腹の周りに居座っている脂肪とたるんだ筋肉もなんとかしたい。翌日の筋肉痛を覚悟して猪突猛進だ。

 

あとに残った疲労感に浸る。これでいいのだ。明日はいよいよ原稿に書く。きっともっと頑張れると信じて疑わない。オレはシアワセだ。

文学賞への挑戦は取材から

昨日、作品の舞台にしたいところを見に行った。数ある文学賞の中でこれこそと思うものに狙いを定めて、そのための取材だ。しかし、書くかどうか半信半疑のまま歩いて回った。取材旅行気取りは楽しかったが、まだ決めかねた。帰ってからパソコンとノートを前に当てもなく考えた。

 

今日もぐるぐると終わりのない思考になっていた。夕方、カミさんが仕事から帰ってきたところで腹を決めた。そうだ。応募を宣言してしまえばいいのだ。笑われようと嫌味を言われようとやってみる。今書かずにいつ書くんだ。できるかできないかわからない、ではなくやるんだ。おそらく、いや間違いなく途中で詰まって苦しむに違いない。とにかくひとつ仕上げてみよう。

 

来週金曜日が締め切りだ。三十枚ならなんとかできるんじゃないかという気になってきた。昼間、腹の中に座っていた重い気分はいつの間にか消えていた。明日目が覚めてもこの調子が続くことを祈るだけだ。

頭の中に居つくハエ

頭の中をきれいにしたい。すべてというわけではない。ほんの一部だけが汚れている。というよりはうるさいハエがブンブン飛び回って僕の気を散らす。このハエを追い払いたい。

 

大切なことに集中しようとするとやってきて僕の耳元でブンブンとうなる。いや、正確には僕がそのハエにしゃべらせている。僕の言うことに対して、そのハエが何を言うか僕が考え、勝手に会話している。僕一人で二役を演じているのだ。

 

決して楽しい会話ではない。嫌な気分を思い返すことがほとんどだ。しゃべりたくない、会いたくもない人との会話を思い出し、それを繰り返し頭の中で再生している。またやってしまったと気がつくがすぐに同じ会話を再生してしまう。まるで囚われているようだ。

 

原因はわかっている。勤め先の上司三人だ。同族会社のトップ三人は決して一枚岩ではなく不協和音をまき散らす。それを真正面から受けても自分の仕事をやりぬこうとしていた。渦巻く激流の中を必死に泳いでいた。休職直前は溺れていることにも気がつかず両手両足をバタバタさせ前に進もうとしていた。バカだったと思う。

 

休職・療養して数か月経った。三人と会うことはなくなった。しかしうるさいハエは一日の中で何度もやってくる。出社できなくなった日から比べれば、いくらか耳から遠ざかったようではあるが。

 

メンタルクリニックの先生には、楽しい出来事で古いメモリーを書きかえることが一番と教えられた。そのアドバイスを信じて毎日過ごしている。いつかはハエがいなくなり、僕の頭の中がスッキリきれいになる日がくると信じている。